中退

もし今、大学を辞めようかと迷っている人がいたら、辞めるな、と言いたい。

私は大学を中退した。中退といっても、まったく単位を取っていないから「途中でやめた」というより、「入学はしたが何もしなかった」という方が正しい。

もう30年ほど前のことである。今とは大学に通うことの意味が多少違うかもしれない。

当時は「フリーター」という言葉が流行っていて、就職せずにアルバイトで暮らす若者が多くいた。そんなことができたのは景気がよくて仕事がたくさんあったからでもあっただろう。

その後、バブルが崩壊して、就職氷河期だのという時代も経て、今は氷河期まではいかないのかもしれないが、私が大学生だったころよりは就職難と言えるのだろうか。

1989年12月29日が日経平均の最高値を記録した日だったそうだ。

私が入学したのが1988年だから、大学生2年目になる。私は一度も進級しなかったので2年生ではなかった。一度留年したときには辞めるつもりはさらさらなかった。ただし、大学以外にやらねばならないことがありそれに追われていて、大学などどうでもいいと思ってはいた。

今調べるとバブル崩壊というのは1991年3月から始まったとされているらしい。だとすると私が大学を辞めた時はまだ崩壊前で、就職して1年くらいして崩壊し始めたことになる。

高校を卒業して1年浪人し、大学に入学して1年目で留年し、2年目もほとんど通わずに2回目の留年が決まった。私の通っていた大学は前期で留年が決まる。その時点でもう通えないという気がしていた。そして3年目の大学生活が始まる春に退学を決めた。

やめる前に仕事は決めた。契約社員で、アルバイト求人雑誌を見て履歴書を1枚書いて1回面接しただけで決まった仕事である。そして仕事が決まってから、退学届を出した。1990年3月のことである。


大学を辞めても仕事はあるし大学を卒業した人と机を並べて同じような仕事をしているのだから別に中退したことなんか大したことではないと思っていたが、その後の社会人生活において、大学を中退したこと、大学を卒業していないこと、つまり高卒であることが、こんなに重いものでしかもいつまでもつきまとってくるものだということを思い知った。

自分の決断を後から後悔することはあるが、大学を辞めたことについては後悔しているなどという言葉では済まないくらいの重大な決断であった。辞めないほうがよかったとは思う。しかし、この決断を過ちであったとか、すべきではなかったとも言うこともできない。


辞めるには理由があったが、それは積極的な理由ではなかった。つまり、大学なんかにいるよりは早く就職した方がカネが稼げるとか、大学なんかより社会の方がよっぽど勉強になるなど考えたのではない。

本当は大学にいたかったし、勉強もしたかった。しかし、どうしてもそれができず、やめて仕事をせざるを得なかったのである。

やりたい仕事があったのではなく、とにかくカネが必要だった。勉強するにも、大学に通うにもカネがいる。そのカネは親が出してくれたものだ。そして、生活費も親が出してくれている。私はそれが恥ずかしいというか、もう二十歳になって立派な大人なのに、親元で生活して学費を払ってもらって大学に通うなどということが、自分のすべきことではないと思えてしかたがなかった。

大学を出れば就職に有利であるとか、職業の選択の範囲が広がるとか、教養が身につくとか、今の状態では社会に出るには未熟だとか、まったく考えなかった。そういうことは言われてはいても、まったく実感がなかった。

しかし、30年たった今、大学を中退したことで私の人生は間違いなく困難になり、世界も狭くなった。

それは、大学を出ていればあの企業に就職できてもっと収入が得られたはずだ、というだけのことではない。

今、大学を中退しようとか、そもそも大学に行くのをやめようとか考えている人は、考え直してほしい。大学へ行くこと、勉強することを無条件に素晴らしいというのではない。大学にもいろいろあるし、勉強にもいろいろある。行っても無意味な大学、しても無意味な勉強もあるだろう。

しかしそれは社会に出ても同じだ。行っても無駄な会社、しても無駄な仕事がたくさんある。それは、大学に行って勉強したことが無駄になるよりももっと人生にとって害があると実感している。

意味がないから行かない、意味がないからやらない、という考えで生きていくのは楽なようで結果的に自分を苦しめることになる。

私が「大学をやめるな」と言っているのは、大卒と高卒で就職先が変わるとか、生涯年収がいくら変わるとかの理由ではない。

おそらくそういうことにもなるだろうが、それは結果である。単に収入を多くしたいだけなら起業でもした方がよっぽど稼げるかもしれない。

私は大学をやめてしまったが、仕事がないことはなかったし、大卒の人の給料を直接聞いたわけではないが、彼らの生活ぶりを見ている限りそれほどの差は感じられなかった。

多分、金額で比較してしまえば歴然とした差があるのだろう。しかし、住んでいる家の広さが違う、乗ってる車の車種が違う、買ってる肉の値段が違う、などの差でしかない。

そういうことが格差だと感じ、それに耐えられないという人は多分、最初から大学を辞めようなどと思わないだろう。


多分、私のようにそこそこの生活ができればいい、とりあえず当面のカネが必要だ、学問なんて悠長なことはやっていられない、という人がやめてしまうのだ。

私はそういう人に言っている。やめてはいけないと。

そしてその理由は親の体面でも自分の生活レベルでも世間体でもない。もっと自分自身の内面に関わる、そしてそれは外面にも影響してくる、人間が生きるための根本の問題なのだ。


「勉強」というのは、知識の習得や能力の向上をはかることだけではない。それだけなら、いつでもできるし大学に行く必要もない。

教育というのは、教育者が必要とみなすものを被教育者が習得し、教育者が習得したとみなすことにより、その人は教育を受けた人であるとされるようになる。

それは、意地悪な見方をすれば、その時代のその国でしか通用しない時間的にも空間的にも限定されたものでしかない。時代や国を超えた絶対的な真理を身に付けるわけではないのだ。

たとえば、ある時代では天動説が真理だとされ、ある時代ではエーテルというものが存在するとされた。天皇が神だと教育された時代もあった。

だからといって、教育によって教わるものが真理とは限らないから、教育を受ける必要がないとし、自ら真理を追究する生き方をしていけばよいのだろうか。

極端なことをいうと私はそういう生き方をしてきた。学問的な権威などというものは一切信じてこなかった。

でも、そんな私でも芸術やスポーツなどで、その偉大さを認めざるを得ないような人や作品などがあることはわかっている。

私は高校生のころそして大学に入学したころにも、「絶対的な真理というものは存在するのか、存在すべきだ」と考えていた。その一方、自分がしていること、自分が学校で学んでいることがそれとはかけ離れた、処世術にすぎないように思えてならなかった。

しかし、学校で学ぶことは、特に大学などというところは、そんな人にこそ、処世術ではない絶対的な真理を追究しようという人にこそ必要な場であるはずなのだ。

私は大学教育を受けず、必要だと思う知識は読書したり、資格を取ったりして身に付けた。そういう知識や資格だけを見れば、私の持っているものはヘタな大学を出た人に引けを取らない。だが、私にはやはり大学を卒業した人が持っているものが欠けているのが感じられる。

それが具体的に何かはわからない。たとえば大学ではゼミという、グループで討論しながらあるテーマについて研究する場がある。また、卒論という、自分でテーマを定めて研究したことをアウトプットするというものもある。私にはこの二つの経験がない。そして私はディスカッションであるとか、自分の主張を相手に伝えるなどのことが非常に苦手である。

でも、それは「大学を卒業していればディスカッションや自主的な研究能力が身についた」という単純な話にも思えない。

だいいち、そんなものは4年間大学に通って身につくようなものでもないだろう。

私は、自分が大学を辞めたということから、せめて、その意味を学びたい。大学に入学しながらそれを卒業しなかった私だからこそわかることを明らかにしたい。

大学を出ていればディスカッションや論文作成能力が身につく、などという、形のある既成のものを、ゲームでアイテムを獲得するように得るのではないはずなのだ。


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