JAL123便事故から40年

JAL123便の事故についての今年3月に公開された対談を観た。

語っていたのは元パイロットで、聞き手は有名youtuberで私も彼の動画をいくつか観たことがあって、まあまあ信頼できる人だと思っている。

名前を書かないのは別に伏せているわけではない。大っぴらに公開されているので探せばすぐ見つかるだろう。検索などで引っかかってあまり見られたくないので名前は書かない。

話の内容はよく聞かれる陰謀論を全面的に否定するものでありそれには私も同意見だが、意外だったのが機長を始めとする乗務員たちに過失があったという見方である。

元パイロットは、彼らは尾翼破損が起きた時点で酸素マスクを付けて対処法を議論すべきだったのにそれをしなかったために酸欠を起こして意識もうろうとし正確な判断ができなかったというのである。

もし正確な判断ができていたら、その時訓練中で機長席に座っていた副操縦士と操縦を代わり、油圧が機能しなくてもできる操作を使って海面に不時着ができたかもしれない、というのである。

当時の乗務員たちは正確な判断ができなかったために機体をコントロールできないまま群馬の山中に墜落させてしまったのであり、横田基地に着陸しようとしたとかいいう意図はなかったとのことである。

彼はボイスレコーダーは非公開の部分まで全部聞いていると語っていた。彼によると非公開部分は乗務員の間の罵倒のようなものだけであって事故の本質を隠ぺいするようなものではないとのことである。

ちなみに有名な「オレンジエア」については一笑に付しており、そんなことを言うことはありえない、あれは「オールエンジン」である。と断言しているのだがあらためて聞き直したがどう聞いても「オールエンジン」とは聞こえない。だからと言って「オレンジエア」だとも思わないが。

もう一つ新しい話としてあったのは、米軍の救助要請を断ったことについて、当時の運輸大臣の山下氏と総理大臣の中曽根氏が事故の重大さを認識できず他人任せであったことを批判していることである。

陰謀論を唱える人たちは中曽根氏が意図的に事故の真相を隠ぺいするようなことをしたというが、それはなかったが、適切な対応ができなかったということで否はあるというのである。

山下氏については女性スキャンダルのことにも触れて、人間的に問題があるということを語っていた。

wikipediaを見てみたら、山下氏は墜落した123便の機体に、墜落する前に福岡から羽田に飛行したときに搭乗していたそうである。


この対談でもまだ不明なところがあるのだが、その一つは米軍の救助要請を断った理由である。

まず、事故に関する隠ぺい工作をおこなうための時間稼ぎだとかいうのは論外として、

メンツの問題、費用の問題、米軍に借りを作りたくなかった、などいろいろ考えたが、

たいした意図はなかったようにも思えてきた。

たとえば、墜落して炎上したのならもう絶望的だろう、日も暮れて山奥に救助は難しいから夜明けになってから、と考えたとか。

中曽根氏は夏季休暇中であった。

事故から40年たとうとしている。当時私は高校生で、その日は有楽町で映画を観た日だった。墜落したのは夜7時ごろなので、9時ごろにはテレビでは墜落したようだというニュースになっていたと思う。

JAL、乗務員、ミスだとされた修理をした整備士、政府、それぞれに過失や怠慢があったかもしれないが、ヒステリックに陰謀だと言ったりどこかに責任を押し付けようとするのはやめた方がいいと思う。

おそらくこれは稀にしか起こらない事故だったのである。

もし何か隠ぺいされるようなことがあったとしたなら、40年たってまだそれが露呈していないなら、隠ぺいが成功しているのである。

そんなことを言っちゃ、いけないか。

でも、ケネディ暗殺もそうだけど、世の中そんなに何もかも誰かが仕組んだように動かないしどうにかしようなんて考えてないと思うんだよね。

某俳優がマンションの隣室に立ち入った件

ある若い俳優が、泥酔して自分の住むマンションの隣の部屋に入ってトイレに入り住民に通報されるというニュースがあった。

マンションだから同じドアで同じ間取りの部屋があるから間違うのはありえる、とは納得できない。

私が経験があるのは、エレベーターに乗って降りる階のボタンを間違って押してしまったことだ。階が違っても部屋の位置や間取りは同じなのだが、この時、エレベーターを降りた瞬間にすぐアレっ?と気づいた。表札とか、部屋番号表示とかが違うというのもあるが、そもそも階が異なるといつも出入りしている自分の部屋とは明るさや全体的な雰囲気がまったく違う。

ドアに鍵がかかっていなかったらしいが、そもそも、鍵がかかっていない時点でおかしいと思わなかったのだろうか?その俳優は鍵を掛けずに出かけていたのか?

あと、不明なのが「事件」があったのが12月30日の午前10時半ごろで、前夜から酒を飲んで酔っ払っていたというのだが、年末だしそんなこともあるのはいいとして、その時間まで彼は外出していたのだろうか?外出してマンションに帰ってきて、隣の部屋のドアを開けてしまったのか?まさか、自分の部屋で飲んでいて、自分の部屋から出て隣の部屋に入ったわけではあるまい。

前夜から外出していたのなら鍵を閉めていないというのは考えにくい。

そして彼は自分の部屋ではない隣の部屋に入って、トイレに入って用を足したらしいのだ。


他人の部屋に入ったら、玄関に置いてある靴とか、照明のついている・いないの感じとか、匂いとか、音とか、そういうもので入った瞬間に自分の部屋ではないと気づかないだろうか?

トイレに入るなんて、同じ間取りだったとしても、トイレにおいてあるもの、便座カバーだの掃除用具だの、壁に掛けてあるものだの、芳香剤だの、掃除しているかどうかなど、気づかないなんてとても考えられない。


要するに、彼は酔っていたとはいえ、そこが隣人の部屋であるということはわかって入ったのだとしか思えない。


TOEICの結果

400, 400の 800という冗談みたいな結果だった。

800点ならまあまあなのかもしれないが、あわよくば900点、とか思っていたのが恥ずかしい....

今回は公式問題集1冊の2回分の模試をやっただけだったので、準備不足ではあった。

加齢による衰え、というほどのことはないとは思うのだが、リスニング力が低下しているのは自覚がある。

リーディングはそうでもないと思っていたのだがリーディングもダメだったか....

自分の力不足だけでなく、受験者全体のレベルがあがっているのではないか?

対策本やyoutubeやXによる勉強法などの情報が格段に増えた。


英語力というのは一朝一夕に向上するものではないが、1,2か月くらいの準備をするだけでもだいぶ効果がある。英語力というか、TOEIC対策でしかないかもしれないが。

895点取った時は、745点だった前回の受験から約2年後だったが、その間特に英語を勉強したわけでも英語を使っていたわけでもない。ただし試験前には前回の得点が低かったくやしさから、公式問題集は同じものを2回繰り返したし、リスニングはテキストを見つつ何度も聴きなおしたし、公式問題集以外の問題集もやって臨んだ。あと、weblioの会員になって語彙を増やした。

英語力の向上というより、慣れというか、英語を聴き読む神経の刺激、みたいなことなのではないだろうか。ほとんど、スポーツ感覚のような。

weblioの診断テストはほぼ毎日やっていて、何度か(かなりやるが)やれば一日一回は満点(全問正解)が出るくらいになっているが、これだけではさすがに英語力向上とはならない。

weblioのテストは考えなくてもできてしまうところがあり、最初はいい刺激になるかもしれないが慣れてくると頭打ちになる気がする。



TOEIC受験記

土曜日の10時から。いつも午前中に受ける。午後にするとその日が一日つぶれてしまうから。

最近寝る時間が不規則で特に週末は変な時間に起きて飲んだりしてしまうのだが、TOEIC受験があると知りつつ、それをやってしまう。

朝6時ごろ、「受験できないかな」とあきらめかけ、寝る。

8時には起きないとと思って目覚ましをかけていたが、まだ酒も残っていたし眠いし、今日はダメだ、と寝てしまった。

しかし、9時ごろ目が覚め、今から行っても間に合うな.... と思って家を出てタクシーで会場へ向かった。

ちょうど受付が始まるくらいの時間に着いた。

受験者は若い人が多く、私くらいの年齢の人は見当たらない。


会場は広い、講演会をするような場所だった。


さて、試験について。

リスニングが難しくなった。自分のリスニング能力が低下したというより、難しくなったと思う。写真を見て答える問題で、「え?これ何語?」というくらい何を言ってるのかわからないものがあったりした。

質問が読まれて、それに対する答えが3つ読まれて選ぶ問題でも、どれもあてはまらない、と思うものが何個かあった。

感触として、リスニングは100点満点で85点くらいかなと思う。

例の「先読み」はしなかった。周りの受験生たちは問題用紙をめくる音からして、ほとんどの人が先読みしていたようだった。

リーディングは快調だった。後半の方は、質問を先に読んでから、答えを探しつつ読んだ。え、こんなに簡単?と思うことが何度かあった。もしかしてヒッカケにひっかかっていたのか。

3分くらい残して完答し、見直して一つ、PART5の答えを直したのだが終わってすぐ直す前が正しかったと気づいた。


満点を100回以上とっているというyoutuberが速報動画を出していたので見たらリーディングが難しかったと言っていて、アレと思ったが、満点を取るレベルの人が言う難しいなので、ちょっと意味が違う。私はわからない単語が出てきても推測で答えるので完璧に聞いたり読んだりできないのは前提である。

リーディングは95点くらいいったのでは?90点はいってるだろう、という感じ。

85点95点だとすると890点。900は無理か..... 




トランプ暗殺未遂

日本時間の日曜日の朝に起きた事件だったが、いつもは四六時中iPhoneを持ってXを見ている私には珍しくTVを見たりなどしていて、ニュースを知ったのは昼頃だった。

三連休だったので翌日は休みだったが火曜日になるまでずうっと主にXでこれに関する情報を漁っていた。

不可解なこと、思い込みにもとづくデマ、それを信じて拡散する人、逆に嘘ともいいきれない情報を嘘だと決めつける人、否定しようのない動画、音声。

事件から三日たった今でも様々な情報が入り乱れている。


まず、間違いない事実と言えること。

トランプは右耳をケガした。

右耳以外にケガはなく入院などすることもなく翌日は普通に行動していた。

一人の狙撃犯が射殺されて、名前と年齢が公表された。(Thomas Matthew Crooks, 20歳)

狙撃犯が狙撃したのはトランプから130メートルほど離れた、倉庫のような建物の屋根の上からだった。

狙撃犯は狙撃する前に複数人に目撃されており動画も撮影されている。

銃声は最初の1発から2秒くらいの間に2発、そのあと2秒くらい置いて連射するようにおそらく5発、そして10秒くらい置いて少し小さな銃声が1発聞こえる。

「最初から8発目までが狙撃犯の銃声で、最後の1発がカウンタースナイパーが撃って狙撃犯を撃った銃声」という情報を見て、そうなのか、と思っていたが、どう考えてもあんなにスナイパーたちがいたのに反撃しなかったとは考えられない。連射するように聞こえた銃声はやはりカウンタースナイパーたちが一斉に撃ったのではないか?

トランプの後ろの2か所の建物の屋根の上に、二人ずつカウンタースナイパーがいた。(動画あり)

どのスナイパーが犯人を撃ったのかは不明。


定かではないがおそらく真実らしいこと。

狙撃犯が屋根の上にいるのを目撃した人が警察官にそのことを告げたが警察官は取り合わなかった。(目撃者が声を出している動画はあるが、それに対する警察官の反応が映っていない)

狙撃犯がいた建物はセキュリティサービスの管轄外で、警察官が警備していた。そして、その建物はなんと警察官の待機場所のようになっていて、狙撃犯が屋根の上にいるときにその建物の中には警察官がいた。


拡散されたが事実ではないこと

狙撃される直前トランプが顔の向きを変えているがそれは安倍晋三の声が聞こえたからだ、とトランプがインタビューで答えた(嘘)

狙撃犯の死体が運び出されるところとして拡散された動画はトランプの後ろ(手前という情報もある)にいて犠牲になった集会のギャラリーの一人だった。


事実かどうかわからないが嘘ともいいきれないこと

カウンタースナイパーの一人がインターネット掲示板に自分の名前とともに、「SSの上司が狙撃許可を出してくれないので撃てなかったが自分の判断で許可を待たずに撃って自分は職を失った」と書き込んでいるというスクリーンショットが出回っている。この書き込みは私も見ることができた。しかし匿名掲示板でありこれが本当にスナイパーが書き込んだという証拠はない。ここに書き込まれた Jonathan Willisという名前の職員は存在しないとSSが否定しているようだが、本当に存在しないのかも不明。私はもしかしたら本当で、SSが隠ぺいしている可能性もあると思っている。匿名掲示板は真実である証拠もないが虚偽である証拠もない。


信じがたいが否定もしきれないこと

狙撃犯は射殺された男以外にもいて、逃走した。(給水タンクのような高い塔の上にいた)

それを証言してる人の動画を2つほど見た。


多分本当

SSの責任者(Kimberly Cheatle)は女性で、狙撃場所にスナイパーを配置しなかった理由について「傾いていて危険だったから」と答えた。(でも、そもそもSSの管轄外なのではないのか?)


多分嘘

暗殺は計画されていて、狙撃手はトランプを狙撃後カウンタースナイパーによって射殺されることになっていた。カウンタースナイパーが狙撃手の方向に銃を向けていたのにすぐに狙撃しなかったのはそのため。


信憑性が高い証言

元グリーンベレーの狙撃手だったという人が、あんな場所にライフルを持った20歳の一般人男性が立ち入って狙撃するような状況になるのは、内部に協力者がいないとありえないことだと証言している。


真偽不明

トランプの耳に当たったのは弾丸ではなく、弾丸が破壊したプロンプターの破片だった。

トランプは体にも被弾していたが(上着に穴があいたように見える写真あり)、防弾チョッキを着ていたため被害はなかった。


不可解なこと

少なくとも4人もカウンタースナイパーがいたのだから、狙撃があったら一斉に反撃があっていいはずなのに、彼らの銃声が聞こえない

あんなに障害物のない広い場所でわざわざ集会を開いた理由

カウンタースナイパーが狙撃犯を見つけた瞬間らしき動画があるが、驚いて少し身を引くようなしぐさをしているのだが、その前から銃口を向けてスコープを覗いている。先に書いたように狙撃犯がそこから狙撃することを知っていたようには見えない。

10秒くらい間をおいて聞こえる最後の銃声とほぼ同時に、一人の女性の叫び声が聞こえる。

狙撃犯を撃った銃声だとすると、それに対して悲鳴を上げる理由がわからない。その悲鳴が聞こえる動画はトランプがいる演台を映していて、狙撃手から130メートル離れている場所だからだ。

犠牲になったギャラリーにいた人が被弾したのを傍で見た人だとすると、悲鳴を上げるタイミングが遅い。

銃声がしてSSがトランプを囲み銃声が止んでしばらくして、shooter's downと言っているがどうして狙撃犯が撃たれたことがわかったのか。無線機のようなものは持っていないし、イヤホンのようなものを付けているのも見えない。

集会場の警備はSS、周辺は警察という分担だそうだが、トランプの後ろの建物の屋根の上にいたカウンタースナイパーの背中には「POLICE」と書かれている。



TOEICの先読み

公式問題集をやっている。Readingの時間が75分に伸びた...と思ったが前から75分だったっけ?

2回分の問題をやってみて、1回目は5問、2回目は3問残した。

Readingは難易度はあまり変わってないように感じるが、やっぱり時間がない。じっくり考えたり迷っている暇はないし、じっくり考えるような問題は出ないので迷っている時点で何かがわかってないか読み落としている。

Listeningが難しくなったように感じる。自分のリスニング能力が低下しただけかもしれないが。

Part2で、間違うというより、何を言っているのかわからなかったり、3つとも違うだろ、と思うものが結構ある。

Part3,4は聴く量は多いのだが、その分多少の聞き逃しや不明なところがあっても推測できるのでむしろ間違いにくい。

Part3,4は音声を聞いた後に、質問が出される。その質問と選択肢は問題用紙に書いてあり、質問は音声でもながれる。

厳密にはこのパートはListening&Readingである。

このパートを解くときに、「先読み」という手法があり、それをすることをすすめる人が多い。

先読みというのは、テキストに書いてある質問と選択肢を、問題文を聴く前に読んでおくことである。質問は読み上げられ回答を選ぶ時間が与えられている。先読みしておけば、聞きながら回答を選ぶことができ、質問が読み上げられている間に次の問題の質問と回答が読める。

私は最近2回くらいはこの「先読み」をしたが、あまりおすすめできない手法だと思う。

まず、先読みなどしなくても答えられるくらいの難易度で時間もある。先読みできた方が確かに速く回答できるだろう。しかし先読みにはリスクもある。読んでいる間に、前の問題の質問が読み上げられていて、その音が邪魔になる。また、そして、リスクというか無駄なのが、正解ではない選択肢も読むことになる。

あと、問題文を聴いてから質問を読む方が、ああ、あれのことね、それは...とすらすらと読める。そして、関係ない選択肢は読み飛ばせるし、正解が見つかればそれ以降を読む必要がない。


質問は難しくなく、選択肢も短い文章あるいは単語で苦労するようなものではない。高得点を狙うには、という人ほど、先読みは必要ないと思う。ここで時間を短縮したところで、リスニングテストは一定の時間で進むのだから、時間が稼げるのは各問題ひとつひとつの間だけだ。

先読みすると疲れるし。今回の模試では先読みをしなかった、というか先読みをする気力がなかった。


Readingの後半の、題材があってそのあとに質問がある問題については、「先読み」は有効かもしれない。Readingであれば関係ない音声は流れない。

私は題材が短い場合は全部読んでから問題を解くが、最後の方は疲れるせいもあるが、質問を一個ずつ読んで、答えが見つかったらまた次の質問を読んで、というふうにする。


でも、Readingも、本当は最初から最後まで通して読んで、そのあとで質問を読んで答えていく方が先入観なく読めていいようにも思う。

Listeningにも言えるが、先読みのデメリットとして先入観を持ってしまう、ということもある。

TOEICのReadingは、基本全部読まないと解けない。ここだけ読めばよいとか、とびとびに読むとか、前後を変えて読んだ方がよいなどのことはない。

TOEICは迷ったら負けだ。頭を使って答えをひねり出すとか探し出すような問題は出ない。わからなかったり迷ったりする場合は意味がわかっていないだけだ。英語の意味がわからないといいうのは、リスニングでもリーディングでも、一朝一夕にどうにかなるものではない。着眼点とか、発想とかを工夫する必要もない。












中退

もし今、大学を辞めようかと迷っている人がいたら、辞めるな、と言いたい。

私は大学を中退した。中退といっても、まったく単位を取っていないから「途中でやめた」というより、「入学はしたが何もしなかった」という方が正しい。

もう30年ほど前のことである。今とは大学に通うことの意味が多少違うかもしれない。

当時は「フリーター」という言葉が流行っていて、就職せずにアルバイトで暮らす若者が多くいた。そんなことができたのは景気がよくて仕事がたくさんあったからでもあっただろう。

その後、バブルが崩壊して、就職氷河期だのという時代も経て、今は氷河期まではいかないのかもしれないが、私が大学生だったころよりは就職難と言えるのだろうか。

1989年12月29日が日経平均の最高値を記録した日だったそうだ。

私が入学したのが1988年だから、大学生2年目になる。私は一度も進級しなかったので2年生ではなかった。一度留年したときには辞めるつもりはさらさらなかった。ただし、大学以外にやらねばならないことがありそれに追われていて、大学などどうでもいいと思ってはいた。

今調べるとバブル崩壊というのは1991年3月から始まったとされているらしい。だとすると私が大学を辞めた時はまだ崩壊前で、就職して1年くらいして崩壊し始めたことになる。

高校を卒業して1年浪人し、大学に入学して1年目で留年し、2年目もほとんど通わずに2回目の留年が決まった。私の通っていた大学は前期で留年が決まる。その時点でもう通えないという気がしていた。そして3年目の大学生活が始まる春に退学を決めた。

やめる前に仕事は決めた。契約社員で、アルバイト求人雑誌を見て履歴書を1枚書いて1回面接しただけで決まった仕事である。そして仕事が決まってから、退学届を出した。1990年3月のことである。


大学を辞めても仕事はあるし大学を卒業した人と机を並べて同じような仕事をしているのだから別に中退したことなんか大したことではないと思っていたが、その後の社会人生活において、大学を中退したこと、大学を卒業していないこと、つまり高卒であることが、こんなに重いものでしかもいつまでもつきまとってくるものだということを思い知った。

自分の決断を後から後悔することはあるが、大学を辞めたことについては後悔しているなどという言葉では済まないくらいの重大な決断であった。辞めないほうがよかったとは思う。しかし、この決断を過ちであったとか、すべきではなかったとも言うこともできない。


辞めるには理由があったが、それは積極的な理由ではなかった。つまり、大学なんかにいるよりは早く就職した方がカネが稼げるとか、大学なんかより社会の方がよっぽど勉強になるなど考えたのではない。

本当は大学にいたかったし、勉強もしたかった。しかし、どうしてもそれができず、やめて仕事をせざるを得なかったのである。

やりたい仕事があったのではなく、とにかくカネが必要だった。勉強するにも、大学に通うにもカネがいる。そのカネは親が出してくれたものだ。そして、生活費も親が出してくれている。私はそれが恥ずかしいというか、もう二十歳になって立派な大人なのに、親元で生活して学費を払ってもらって大学に通うなどということが、自分のすべきことではないと思えてしかたがなかった。

大学を出れば就職に有利であるとか、職業の選択の範囲が広がるとか、教養が身につくとか、今の状態では社会に出るには未熟だとか、まったく考えなかった。そういうことは言われてはいても、まったく実感がなかった。

しかし、30年たった今、大学を中退したことで私の人生は間違いなく困難になり、世界も狭くなった。

それは、大学を出ていればあの企業に就職できてもっと収入が得られたはずだ、というだけのことではない。

今、大学を中退しようとか、そもそも大学に行くのをやめようとか考えている人は、考え直してほしい。大学へ行くこと、勉強することを無条件に素晴らしいというのではない。大学にもいろいろあるし、勉強にもいろいろある。行っても無意味な大学、しても無意味な勉強もあるだろう。

しかしそれは社会に出ても同じだ。行っても無駄な会社、しても無駄な仕事がたくさんある。それは、大学に行って勉強したことが無駄になるよりももっと人生にとって害があると実感している。

意味がないから行かない、意味がないからやらない、という考えで生きていくのは楽なようで結果的に自分を苦しめることになる。

私が「大学をやめるな」と言っているのは、大卒と高卒で就職先が変わるとか、生涯年収がいくら変わるとかの理由ではない。

おそらくそういうことにもなるだろうが、それは結果である。単に収入を多くしたいだけなら起業でもした方がよっぽど稼げるかもしれない。

私は大学をやめてしまったが、仕事がないことはなかったし、大卒の人の給料を直接聞いたわけではないが、彼らの生活ぶりを見ている限りそれほどの差は感じられなかった。

多分、金額で比較してしまえば歴然とした差があるのだろう。しかし、住んでいる家の広さが違う、乗ってる車の車種が違う、買ってる肉の値段が違う、などの差でしかない。

そういうことが格差だと感じ、それに耐えられないという人は多分、最初から大学を辞めようなどと思わないだろう。


多分、私のようにそこそこの生活ができればいい、とりあえず当面のカネが必要だ、学問なんて悠長なことはやっていられない、という人がやめてしまうのだ。

私はそういう人に言っている。やめてはいけないと。

そしてその理由は親の体面でも自分の生活レベルでも世間体でもない。もっと自分自身の内面に関わる、そしてそれは外面にも影響してくる、人間が生きるための根本の問題なのだ。


「勉強」というのは、知識の習得や能力の向上をはかることだけではない。それだけなら、いつでもできるし大学に行く必要もない。

教育というのは、教育者が必要とみなすものを被教育者が習得し、教育者が習得したとみなすことにより、その人は教育を受けた人であるとされるようになる。

それは、意地悪な見方をすれば、その時代のその国でしか通用しない時間的にも空間的にも限定されたものでしかない。時代や国を超えた絶対的な真理を身に付けるわけではないのだ。

たとえば、ある時代では天動説が真理だとされ、ある時代ではエーテルというものが存在するとされた。天皇が神だと教育された時代もあった。

だからといって、教育によって教わるものが真理とは限らないから、教育を受ける必要がないとし、自ら真理を追究する生き方をしていけばよいのだろうか。

極端なことをいうと私はそういう生き方をしてきた。学問的な権威などというものは一切信じてこなかった。

でも、そんな私でも芸術やスポーツなどで、その偉大さを認めざるを得ないような人や作品などがあることはわかっている。

私は高校生のころそして大学に入学したころにも、「絶対的な真理というものは存在するのか、存在すべきだ」と考えていた。その一方、自分がしていること、自分が学校で学んでいることがそれとはかけ離れた、処世術にすぎないように思えてならなかった。

しかし、学校で学ぶことは、特に大学などというところは、そんな人にこそ、処世術ではない絶対的な真理を追究しようという人にこそ必要な場であるはずなのだ。

私は大学教育を受けず、必要だと思う知識は読書したり、資格を取ったりして身に付けた。そういう知識や資格だけを見れば、私の持っているものはヘタな大学を出た人に引けを取らない。だが、私にはやはり大学を卒業した人が持っているものが欠けているのが感じられる。

それが具体的に何かはわからない。たとえば大学ではゼミという、グループで討論しながらあるテーマについて研究する場がある。また、卒論という、自分でテーマを定めて研究したことをアウトプットするというものもある。私にはこの二つの経験がない。そして私はディスカッションであるとか、自分の主張を相手に伝えるなどのことが非常に苦手である。

でも、それは「大学を卒業していればディスカッションや自主的な研究能力が身についた」という単純な話にも思えない。

だいいち、そんなものは4年間大学に通って身につくようなものでもないだろう。

私は、自分が大学を辞めたということから、せめて、その意味を学びたい。大学に入学しながらそれを卒業しなかった私だからこそわかることを明らかにしたい。

大学を出ていればディスカッションや論文作成能力が身につく、などという、形のある既成のものを、ゲームでアイテムを獲得するように得るのではないはずなのだ。


JAL123便事故から40年

JAL123便の事故についての今年3月に公開された対談を観た。 語っていたのは元パイロットで、聞き手は有名youtuberで私も彼の動画をいくつか観たことがあって、まあまあ信頼できる人だと思っている。 名前を書かないのは別に伏せているわけではない。大っぴらに公開されているので探せ...