永遠とは

最近、永遠についてよく考える。

永遠というのは、人間が死んだら魂が永遠に生きるというのは本当なのか、それは実はなにか違うことを喩えで言っているだけなのではないか、というようなことである。

私は人間が死んだら生前の行いによって天国または地獄に行くということを漠然と信じていた。

子供の頃絵本か何かで見たようなあの天国地獄そのものではないにしても、これまた喩えであるにしても、天国や地獄の存在は信じていた。

しかし最近、40代後半くらいからだろうか、人間は死んだら無になってしまうのだ、ということがほとんど確信されるようになってきた。

きっかけの一つは父の死である。

父がガンになり、入院して手術し、やせ衰え、認知症を発症し、最後は会話もできず意思疎通もできない状態になり延命治療を止めて死んでいった。

現在あまりおこなわれなくなった通夜葬儀もやり、火葬しまあまあ高額な墓石を買って納骨した。49日、1周忌、3回忌、7回忌、13回忌などの法要もおこなった。

今でも時々父の夢を見る。

その夢の中で私は、父は死んだはずではなかったっけ、まだ生きていたのか、といつも思っている。父はだいたい病気だったりなんだかぼうっとしているような生きているのか死んでいるのかわからない状態で、自分と会話することもなくただ同じ家にいるだけ、といった風である。

私が身近に経験した唯一の死と言っていいい。

私は物心ついたときには祖父も祖母もいなかった。父は5人の兄弟姉妹のなかで一番早く死んだ。

父の死後、父がどこかで私を見守っているなどと感じたことはまったくなかった。


そして、やはり人は死んだら終わりなのだ、無になってしまうのだと思うようになった。

しかし、それと同時に、自分が存在していること、自分が見ているこの世界が存在していることは、それよりももっと間違いないと思えるのだった。

自分が今抱えている問題、経済的なこと精神的なこと仕事のこと健康のことそういったことが、もし自分が死んだらすべてなくなってしまうのにと思う一方、もし死んでも何も変わらず自分自身が存在し続けたらそれは大変なことだとぞっとする。


そして最近、すでに今自分が存在していること自体が永遠なのではないかと思い始めた。

人は人生が過去から未来へ向かって流れていくものと認識している。歳をとり、髪の毛が白くなったり禿げたり体力が衰えたり腹が出たり顔にしわがよったりして、若いころの自分はもう戻らない、昔に戻りたいがそれはかなわない、などと考える。

また、過去にあった幸福な出来事はもう存在せず、写真や日記、今なら動画などの記録でしか残せない。

だが、私は今間違いなく存在している。平凡な人生であっても間違いなく私は生存し、考え、感じている。

時間や空間は間違いなく存在している。

そしてそれは、おそらく永遠である。


私も年老いて病気になりやがて死ぬのだろう。それも間違いないことだ。

しかし、私が今存在して何かを考え感じていることは間違いない。間違いなく明日はやってくる。今は一瞬で、時間は文字通り刻々と過ぎていく。

だが、時間が経過しても、私が思ったことしたことは永遠に変わらない。

記憶から消えても、誰も見ていなくても、私が存在して思ったことは永遠に消えない。

それが人が死んでも魂は永遠に生きるということではないのだろうか。


ミイラを作ったり不老不死の薬を研究したり、タイムマシンがあればと思ったり、時間を止められたらと考えるが永遠というのはそういうことではない。

死なない肉体を持つことが永遠ではない。


人が死ぬのを恐れるのは時間を恐れているのではないだろうか。

時間が経過するから人は老いて死ぬ。

だから、時間を止めたいとか永遠に生きたいとか考える。

しかし、そもそも時間を止めるとか永遠とかいうものは時間という概念というか枠組みがあって初めて成り立つものである。

もし時間という枠組みがなかったらそもそも永遠ということすら考えられない。


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