久しぶりの海外出張に行って感じたのは、翻訳ツールの充実ぶりである。
誰もがもっているスマートフォンでは無料で使用できる翻訳アプリが使える。
パソコンではgoogle翻訳をはじめとして、これも無料で使える翻訳サイトがたくさんあり、翻訳の精度もずいぶん向上した。
アプリ等はほとんどインターネットを使用して大量に蓄積した単語やフレーズ等を参照しているようだ。
だが私は、このことについて、便利な世の中になった、と喜ばしい思いはあまりしない。
私は外国語を勉強するのが好きで、英語だったらほとんど翻訳なしで読める。
書いたり話したりするのはまだまだだが。
英語に関しては、どのように勉強したかというと、ひたすら辞書を引き、ひたすら英文和訳と和文英訳を繰り返しただけである。
とくに海外留学をしたわけでも英会話学校に通ったわけでもない。
もし普通以上のなにかがあるとすれば、私は教科書だけでなく、貸しレコード屋で借りた洋楽の歌詞であるとか、インターネットのニュース、海外のスポーツの情報なども読んできたことだ。
そして、学校で習っていない表現、学校で習ったが使われ方のニュアンスが思っていたのと違う表現などをたくさん目にしてきた。
学校でならう文法に忠実になるか、実際の言葉は学校で習うこととは違うから勉強しないか、ほとんどの人はこのどちらかになってしまう。
しかし私は、学校の文法は基礎として十分に学びつつ、たくさんの生きた言葉を読み、覚えてきた。
この「覚える」ことが大事だ。
大量に高速の外国語をインプットまたはアウトプットするとき、日本語でこういうのを英語ではなんというのだろうか?と考えていたのでは追いつかない。
また、かならず1対1に対応する単語や表現があるわけでもない。
だから、英語を使うときは英語で考えるのである。
木になっている赤い果物はりんごである、リンゴは英語でappleである、という風には考えない。
あの赤い果物はappleである、という風に考える。
そして、そういう考え方ができるようになるには、ある程度の語彙と、文法の知識と、あと文字の組み立て方は把握している必要がある。
往々にして、最小限の法則を覚えてそれを応用しようとするのだが、それは無駄である。
今のアプリなどがしているように、大量のデータを参照してそこから探すほうが速いし、言葉にはあまりにも例外が多すぎる。
私は翻訳機やアプリを使いたくない。
なんといっても、スマホに翻訳させてそれを見せたりしゃべらせたりして会話をするのは味気ないし、失礼ではないだろうか。
そして、言葉を使うことはそれほど高度な技術ではない。
外国語としてとらえて翻訳や通訳することが難しいのであって、
その言葉をそのまま使うことはそんなに難しいはずはないのである。
子供でも話すようになるのだから。
おそらく英語をはじめとして外国語に拒否反応を示す人は、外国語を話すことは翻訳のスペシャリストになることだと考えているからだろう。
その必要はない。