レンガを積むようには考えない
私は「論理的に考える」ことを重視していない。
そもそも、考えるということは論理なしに成立せず、「論理のない思考」なんてものは存在しない。
「論理的な思考」「ロジカルな思考」というのは、だいたい「事実に基づいた思考」ということを指しているように見受けられる。
論理的な思考を否定する、なんていうとすごく馬鹿で低能で無教養な人間の発言と思われそうだが、私はけっして自分をそういう馬鹿だとは思っていない。
大学こそロクにいかずに中退してしまったが、子供の頃から勉強は好きでよくできて、級友や私と仕事をした人には大体おどろかれたものだ。
私が重視していないという「論理的思考」というものは、レンガを積み上げるような考え方の事だ。
事実に基づき明白なことだけを手掛かりとし、主観や感情を排除して考えを進めていく。
私も、煮詰ったときとか、疲れたときとか、冷静さを失っていると感じた時などにはそういう態度をとることもあるが、調子のいいとき、心身が正常であるときはそんなことはカッタるくてやっていられない。
バンバン主観で判断し、事実を確認しないまま推論で考えを進めていく。そうしないと、間に合わない。
いろんなタイミングとか、思いついたことが、レンガ積み上げ思考では蒸発し干からび飛び去って逃げ去ってしまう。
いろんな材料やチャンスが十分に与えられていて時間もありルールに守られた世界では悠長に確実な物事だけを積み上げていけばいいのかもしれないが、私が今まで生きてきた世界はそうではなかった。
何もかもが不平等であり情報はほんの一部しか公開されず、「非対称」どころではなく、それも大体は悪意をもってそうなっていて、「ルール」というものも少数の人間の利益のために恣意的に作られた理不尽なものばかりだった。
法律でさえ、そういうものだと思っている。
そういう世界で生きていくために、私は子供の頃していたような地道で堅実な考え方を捨て、完全性は後回しにして、仮説をふんだんに用いた大胆で雑な思考をするようになった。
当然、頓挫したりとんでもない方向へ進んでしまったりすることはあるが、そうなったら元へ戻って新たな仮説を採用してまた急いで考えを進めればよい。
それを繰り返していくうちに全体が見え始め、確実性も増していき、目的地に到達できる。
一方、レンガ積み思考においては、誤ることは少ないのだが、誤ってしまったときには取り返しがつかなくなる。
誤りに気づけばまだいいが、往々にして気づかない。気づいても認めない。自分は確実な方法を採用したのだから間違っているはずはない、と思い込む。
大体、事実とか真実などというものはあやしいものだ。何をもって事実とし真実とするかは、ほとんどの人は信頼できる他者の証言に頼っている。具体的には「名前」である。
どこかの学者とか、有名企業とか、学校とか、そういう権威の後ろ盾をもって事実とか真実とかみなしてそれをレンガのように積み上げるのである。
しかし、そのひとつひとつのレンガが本物なのかということを、自分で確かめてはいない。
天動説が真理の時代もあった。
エーテルが存在すると信じられていた時代もあった。
万物は木火土金水から成り立っていると考えられていた時代もあった。
というか、これが真理だ、と唱えるいろいろな人がいて、時代や地域によってそれが信頼される人は異なっていた、ということだ。
だから、私はそういう権威を絶対視しない。
もちろん、私だって重要でないこと、たとえば何を食べるとか、どこへ行くとか、
何を着るとか楽しみですることなどについては権威と呼ばれるような人の意見を参考にはするが、本気で何かをするときには何もかもを疑ってかかり誰も信じない。
しかし、私は何も信じないからといって何もしないわけではない。逆に、何も信じないからこそ何でも採用しどこへでも行くしどんなことでも受け入れるのである。
そして自分の目と手と足と心と頭とでそれを確認して、最終的な目的を果たすのである。
そうやってたどり着いた境地は、他の権威をうのみにして全面的に信頼してレンガのように積み立てたものとは違って、もっと堅牢でもっと美しい。
美しいのは無駄がないからだ。
そしてその境地からは落ちることがない。
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