動機も目的もはっきりしない。
だからシリメツレツで、つまらないかもしれない。
わからないかも。
俺はいつも何かを読んでいて、
そのくせ、それをつまらないと思っている。
つまらない、というよりは、ケチをつけている。
たとえば「説明的である」
または「誰かのマネだ」
或いは「絵空事だ」
という感じだ。
俺は、しまいに、「意味のある事はイヤだ」とさえ
思うようになった。
それは言葉に限らず、絵、音楽、映画、ドラマ、
ニュースやスポーツ中継さえも。
スポーツ中継に「し意」がないというのはマチガイだ。
野球では、2死2、3るいで誰もいないファーストを映すとか、
足の速いランナーがでたとき3るい側からピッチャーを映すとか、
そういうものだ。
ドラマでも、その人物が何者であるかを説明して始まるような
ものはダメだ。
障害者を扱ったものはダメだ。
それが事実でなければ感動しないのはダメだ。
俺はもはや、自分が幸福になる事を望まなくなっている。
それは宗教家として無私の境地に立ったというのとは
違う。
俺は、そういいながら、意味のドレイになっている。
論理のどれいとなっている。