死と自己の消滅

別に私の半生を振り返るつもりはなかった。しかし、最近感じる「会社」というものにたいする疑問、反感、嫌悪感というものを書こうとしたときに、私が会社員を辞めた1995年をどうしても振り返ることになる。実はその会社員を辞めた後の私の人生はそれまで以上にパッとしないものになってしまったのであるが、あのまま会社員を続けていたら自殺していたか本当に病気になっていたのではないだろうか。退屈したり不安になる度に、私は1995年を思い出す。1995年に、私の人生が変わった。

そしてそれから16年後、阪神大震災を上回る災害が起きた。1995年には「世の中終わるんじゃないか」と感じていたが、2011年には「本当に世の中が終わることになっても人は今までと同じように生きて行くしかないのだ」ということを悟った。誰もが災害や事故によって突然死ぬかもしれない。
そもそも死は誰にとっても予測不能な事故のようなものだ。それが病気であろうと老衰であろうと交通事故であろうと津波に飲み込まれるのであろうと地震で崩れた建物の下敷きになるのであろうと、突然やってくるものだ。老衰や病気で徐々に衰えて死んでいくように見えていても、明日死ぬのか、明日の9時に死ぬのか19時に死ぬのかがわからなければ、やっぱり死は突然訪れるものである。

そうであれば、我々は死に対してなすすべがない。人が死ぬということはその人にとって世界の終わりである。自分が死んだ後に世界がどうなるのかを心配する人などいるだろうか?誰もがやっと終わった、やっとおさらばできる、とせいせいして死んでいくのではないだろうか?死ぬのが怖いのは、それが苦痛だからである。無になるとか、愛する人やモノと別れるからではない。そして死ぬことにより、人にとって最大の恐怖がなくなる。死によって人が無になるのであれば、その苦痛などなんでもない。その人が存在しているから苦痛があるのだ。

死がその人の存在の終焉を意味するなら、人はそれを自覚できないだろう。『あ、俺は死んだ、無になった』と感じられる主体がなくなるのだから。そうだとすると、人は多分肉体が機能を停止する瞬間、医学で死とされているものを迎える瞬間には、死を恐れたり死後どうなるのかを疑問に感じるその人という主体はすでになくなっているだろう。となると、やはり自己というのは肉体とは別のものであるということになる。もし肉体そのものが自己でありそれが死によって終焉を迎えるなら、人は自分が死ぬ瞬間を認識できないはずだ。となると、人が恐れている死の苦痛というものは死ぬ間際の自己の消滅の際に感じる苦痛なのではないか。

「会社」について書こうと思っていたら、死について考えてしまった・・・。
「会社否定論」は、またの機会に書くことにしよう・・・。

JAL123便事故から40年

JAL123便の事故についての今年3月に公開された対談を観た。 語っていたのは元パイロットで、聞き手は有名youtuberで私も彼の動画をいくつか観たことがあって、まあまあ信頼できる人だと思っている。 名前を書かないのは別に伏せているわけではない。大っぴらに公開されているので探せ...