1995年

1995年は私の人生の転機となった年である。

この年に、私は生まれて初めてパソコンを買った。IBMのThinkPad340である。
まだインターネットなどというものは一般人には縁のない時代であったが、「パソコン通信」と呼ばれる限定されたネットワーク内での通信はおこなわれていた。2400bpsという通信速度のモデムを使用して私は4畳半の部屋でNIFTY Serveというサービスを利用していた。

私がパソコンを買った直後に、阪神大震災が起きた。1月17日である。火曜日だが、15日が成人の日、16日はその振り替え休日で三連休明けであった。地震は早朝に発生したが、その日の朝礼で先輩が「関西地方で地震が発生したようなのでそちら方面のお客様の状況を確認してください」などと言っていたのを憶えている。もっとも確認しようにも通信手段が途絶えていたが。

3月、私は高校時代の知人と再会した。卒業してから10年あまりが経っていたが、私は連絡をとっている友人などまったくと言っていいほどいなかったが、その知人にどうしても会いたくなりある日電話をし食事でもしようということになった。実は彼とはあまりよくない別れ方をしていて私にはひきずっているものがあった。それは私が不愉快であるよりも、相手に不愉快な思いをさせたのではないかということの方が大きかった。しかし彼は私の再会の要望に快く応じてくれ、実際に再会しても笑顔で接してくれ、私は今までの悩みが消し飛ぶような気がした。

その日、家に帰りTVをつけるとどこかの店かなにかに消火器のようなものが投げ込まれてガラスが割られたというようなニュースをやっていた。翌朝、3月20日の月曜日私は常磐線に乗って出勤した。職場は東銀座駅の近くであったが、10時過ぎごろにトイレへ行こうとエレベーターの前を通ると一人の男性が降りて来た。そこへ通りかかった女性が出勤の遅い男性に「どうしたんですか」とたずねると男性は「電車で爆弾が爆発して停まってたんだよ」と言った。女性は笑って「またまた」と言ったが男性は真剣な顔をして「いやホントだって」と言った。

サリン事件のニュースは職場にも伝えられた。たしかよく晴れた日だったと思う。私はその頃昼休みに一人でルノアールという喫茶店でサンドイッチを食べていた。あまり食欲がなく、さらに同僚達と一緒に昼食をとるのが嫌で、薄暗い、ややダミ声の中年女性が店長のその店に行くのが好きだった。

サリン事件があったその日は大騒ぎになったのだがオウム真理教のオの字も出ていなかった。しかし私はよくおぼえているのだが、その日(1,2日後だったかもしれないがオウムの施設が捜索される前)の帰りに日暮里駅のKIOSK店頭にあった東スポの一面には麻原の顔が大きく掲載されていた。事件とは関係のない記事ではあったが。

3月22日朝、テレビで鳥かごを持った重装備の男達が上九一色村に捜索に入る異様な映像を見た。私は職場に携帯ラジオを持って行き状況を確認していた。

その頃私は心身ともに調子が悪く、特に仕事がうまくいっていなかった。景気が悪くて仕事はそれほど忙しくなかったのだが、小さなトラブルが日々発生してその対応に追われていた。3月31日、私は最初で最後の仕事による徹夜をした。翌日は土曜日で休みだった。その時立ち寄った喫茶店かなにかにあった新聞で、30日朝に国松長官が狙撃されたことを知った。

私はこれらの事件が、何か自分の行動がきっかけに起きているかのような気がした。パソコンを買ったとか、旧友に会うとか、徹夜するとか、なんでもないことであるが、どれも私の人生の中では非常に珍しい、というか、一度しかないことであった。不調だった私の心身の状態はさらに悪化し、やがて私は会社を休みがちになる。

確か4月29日、天皇誕生日だったと思うが、私はこれまた生まれて初めて女性が接客して酒を飲む場をおとずれた。まだ早い時間で不景気な店でもあったので客はほとんどいなかった。私はハウスボトルのウィスキーをがぶ飲みした。カレンダーを見ると1995年は5月1日2日が月、火曜日で連休の谷間になっているが、確か私はこの2日を体調不良ということで欠勤し、連日酒場で泥酔していた。そして連休が明けても私は欠勤を続けた。

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