それでは頼朝の死の記述を見てみよう。
建久10(1199)年1月13日・・・無い。
建久6年12月22日~10年2月6日の記述が無いのである。
「吾妻鏡には落馬が原因で亡くなったとある」とあちこちに書いてあるが、
その記述は、1221年つまり死後12年たった時のものなのである。
建暦二年・二月二十八日
廿八日 乙巳 相摸國、相摸河橋、數箇間、朽損。可
被加修理之由、義村申之。如相州廣元朝臣善信、有
群議。去建久九年、重成法師、新造之、遂供養之日、爲
結縁之、故 將軍家渡御、及還路、有御落馬、不經幾
程、薨給畢。重成法師、又逢殃。旁非吉事。今更強雖不
有再興、何事之有哉之趣、一同之旨、申御前之處、仰
云、故 將軍薨御者、執武家權柄、二十年。令極官位
給後、御事也。重成法師者、依己之不義、蒙天絶歟。全
非橋建立之過。此上、一切不可稱不吉有彼橋、爲二
所御參詣要路、無民庶往反之煩、其利非一、不顛倒
以前、早可加修復之旨、被仰出〈云云〉
ここに確かに「故 將軍家渡御、及還路、有御落馬、不經幾程、薨給畢」
と書いてある。
この話の意味だが、多分、こういうことだ。
相模川の橋が古くなって壊れてきたが、
この橋は頼朝が亡くなったきっかけとなった不吉な橋だから、
修理しなくてよいのではないかと、天皇に申し上げたところ、
天皇がそれは偶然だ、橋は有用だから早く治しなさい、
と仰せられた。
このときの天皇は順徳天皇、将軍は実朝の次の・・・
と思ったらなんと不在。
4代将軍は藤原頼経なのだが、1219年で2歳で、
元服した翌年の嘉禄元(1226)年に将軍となるまで、
将軍は不在だったそうだ。