何かを否定するのは簡単である。ある仮定が成立しない状況をひとつでもあげれば、その仮定は正しくないことが証明できる。しかし、肯定するのは難しく、ほとんど不可能と言ってもいい。それが仮定であれば、否定しようとすることはほとんど無意味である。船の碇をつなぐ鎖を断ち切るようなものである。仮定はたとえ到達地点でなかろうと、到達地点へたどり着くために欠かせない足がかりである。そもそも、我々が仮定をたてて思考を進めていくのは、到達地点が見えず、もしかしたら到達できないかもしれないからである。
目の前の雑多な事象一つ一つをとりあげ、その内容を吟味していったら我々は樹海に迷い込んだ人のようにその中で息絶えてしまうだろう。我々が認識していくさまざまな事象が、目的地への確かな足がかりであるかどうかは、到達してみないとわからない。確実な足がかり、つまり事実や真実といわれるものだけを伝っていけばよいのなら、考えるということ事態が不要になるし、我々は自分がすでに知っていることしか知ることができない。我々の目的は到達することである。到達できなければどんなに着実な歩みをしても無駄である。そして繰り返すが着実だとわかっている道を歩んで到達できる場所には既視の景色があるだけだ。
だから我々は、そこを進んだらどうなるかわからない危うい道を歩むことも必要である。それは遠回りかもしれないし、途中で行き止まりになるかもしれないが、遠回りでも到達できれば、後で近道を探ればよいし、行き止まりだったら戻って他の道を探せばいい。
ただし、一番着実で大切なのは、その到達地点にたどり着いたことのある人を探すことである。人間、そうそう、未開の地などに踏み入れるものではない。また、誰もそこへ行かないということは行く意味が無いということである。そもそも、人が未知の真理を知ろうとすること自体が不思議ではないか?自分が知らないことをどうして知ろうとするのだろう?
私の思考法はそのように、仮定に仮定を重ねたガラスのようにもろいものであるから、いつもガラガラと崩れてばかりで、ろくな場所に到達したためしがない。普通の人はそういう試行錯誤と仮定の積み重ねは耐え難いようで、私とともに行動したり仕事したり会話したりするとうんざりした表情になる。だが私は、誰にでも否定できない事実を積み重ねてたどり着けるようなものは、私ではない誰かに行ってもらえばよいと思っているのである。