低学歴はヘイト好き

職場でよく差別的な発言をする人が何人かいるのだが、
彼らは大学を出ていないという共通点がある。
実は私も出ていないのだが、卒業こそしていないが入学はしている。

彼ら以外にも差別的発言、最近は「ヘイト」といわれるが、をする人を思い出してみても、いわゆる「低学歴」な人が多い。

差別的発言をしてしまうのは、それがよくないこと、それをすると批判されることを知らないからではない。

差別的発言だけでなく、子供が大人になるにつれて、いたずら、いじめ、泣く、すねる、ダダをこねる、等のことをしなくなっていくのも同じだ。

いたずらはよくない、泣くのはよくない、ダダをこねるとお父さんやお母さんが困るからやめよう、などと悟っていくのではない。

人が成長するにしたがって他人を見下したり自分を誇大に思い込んだりしないようになるのは、その必要がなくなるからである。

自分が成長して、他者より能力があり優れていることが自覚できれば、自分より劣ったものや弱いものを蔑んだり差別したりしようなどとは思わない。

それをしてしまうのは、自信のなさと劣等感の表れである。

自分が劣等でありそのことで不遇な目にあい自分が差別されていると感じているから、自分よりさらに劣ったものを探してそれをこき下ろすことで不安やストレスを解消しようとするのである。

SNS(私はツイッターくらいしか見ないが)で差別的発言があったときにヒステリックに反応する人たちも、きっとそういう人たちだろうな、と思いながら見ている。

私は別になんの怒りも感じない。

私も劣等感や人間関係でのストレスというものは感じているが、それを民族とか職業とかに拡大し一般化することはしない。

人が何か不満を抱くときには必ず個別の事件や、個別の人や関係などが原因になっているはずだ。

私はヘイトはよくないと思っているが、ヘイトは単なる差別意識の表れではないとも思っている。

それは劣等感の表れであるのともう一つ、問題をなんでも一般化、抽象化してしまうことだ。


先日もニュージーランドで差別的な思想にもとづいたと思われる大量殺人事件があったが、インターネットではその事件を移民問題であるとか銃規制の問題であるとかに一般化抽象化するニュース記事などが掲載された。

幼児殺害事件があって犯人がアニメが好きだとか、残酷なゲームを好んでいたとかいうのも、個別の人間ではなく「そういうことをするタイプの人間」という「型」を探してそれをやり玉にあげる、という本能のようなものを人間は持っている。


.....

ここまで書いてきて「ヘイト発言をするのは低学歴」という私の意見もそうなのかなとギクっとした。


SNSとか職場とかで「議論」というものを見てウンザリする。

彼らのしているのは議論などというたいそうなものではなく単なる口論、口喧嘩にすぎない。

「エビデンスを出せ」「ソースは何だ」というのは、子供がけんかしたときに「何時何分何曜日地球が何回まわる頃!?」というのとなんらかわらない。

私は事実に基づかないと話をすすめない人が嫌いだ。

それが事実であるとわかって初めてその原因や対策を考えるのは愚かというか、それでは遅い。

何か問題があると、それが発生した根本原因を探る。そしてその根本原因を解消して問題の再発を防ぐ。こういうことをサラリーマンや公務員はいやいやながらやっている。

考えてみてほしい。もし、個別の問題の背後にある根本原因がわかったら、それによって発生している個別の問題のことはどうでもよくないだろうか?

ヘイト発言を繰り返す鈴木、山田、佐藤、斎藤という4人の男がいたとする。

その背後に、ヘイト大魔王という悪魔がいて、その悪魔が4人の心を支配してヘイト発言をおこなわせていたとする。

それなら、ヘイト大魔王を退治するのが先決である。

こういう話をすると、「何をバカなことを言っているんだ、そんな大魔王がいるわけがない」ということをいう人がいる。

また、サラリーマン(めんどくさいので会社員や公務員やアルバイトや派遣社員らをまとめてこう呼ぶことにする)が業務上の問題の根本原因をあげるときに、「大魔王」レベルの空想的妄想的原因をあげることも多い。

しかしその誤った原因究明も、事実に基づいていればしかたなしとされるところがある。

私にはそれが許せない。

目的は問題の解消であり、事態の改善である。企業であれば利益の増大である。そのための顧客獲得であり、職場のモラルの向上であり、パワハラやセクハラの根絶なのである。

しかしサラリーマンは自分の仕事を誰かの命令あるいは生活の糧を得るための義務としてしかとらえない。

だから、「それが事実なのか」とか「大魔王なんていない」みたいな細かい誤字脱字のようなことばかりにこだわる。


こういうことがなぜ起こるのか、自分はなぜこういうことにストレスを感じているのか、ということを考えて思い当たる自分と他人の違いは、読書経験、ビジネス書やハウツー物ではなく、文学とか詩とかを読んだ経験、音楽、演劇、絵画、そういうものを鑑賞した経験、その差に思えてならない。

「意識高い系」の人々にとっては読書とは知識獲得手段であって、事実や真理以外のことに時間をかけるのは無駄なのである。

美などというものは仕事が終わった後の居酒屋で飲むビールのような、ひまつぶしやストレス解消のためのものでしかない。

そういう人間がただの口喧嘩や意地の張り合いを「議論」と呼び、汚い言葉や文章をなげあってみずからストレスを増やし、醜く年老いて死んでいくのである。


.....


ここまで書いたことを読み返してみて、「個別の問題を見ろ」という主張と、「問題を抽象化するな」という二つの矛盾した主張が入り乱れているように見える。

多分、こんなことを言ったらそういう指摘を受けるだろうな、と思いながら読んでいた。

が、考えるというのは、そういうことである。

ある問題があったらそれを調査して原因を究明しその根本原因をとりのぞく、とか、

個別の事件の背景には根本となる社会問題がある、とか、

そういう型にあてはめていくような思考からはありきたりの発想しかでてこない。



問題を解決するための情報が完璧にそろえば楽であるが、
そんなことはめったにない。
それなのに、その完璧に情報が揃う状態を待って何もしない人がいる。

それも、誰かのためではなく自分のためだ。

自分が批判されたくないというだけの理由だ。

そんな人たちを待っていられないし、そんな人たちのつまらない揚げ足取りを聞いている暇もない。

ストレスではある。

だがそのストレスをヘイトという形で民族とか職業とかいうものに憎悪を投げつけて発散するのもむなしい。

そう思ってこのエントリーを書いた。

私のブログは全部そうなのだが、主張を決めて構成を考えて書いたりはしていない。

自分でも何を書こうか、どういう結論になるかはわからずに書き始める。

文章というものはそれでいいと思っている。


テンプレートに言葉をあてはめていくような文章を書くのはウンザリだ。







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