絶家

「あなたの名前には絶家の相が出ている」と言われた事がある。占い師ではないがそれに近い人だ。あれから20年近く経ち、本当にそうなろうとしている。

絶家というと大変なことのように聞こえる。「○○すると3代目までに絶家になる」とか。しかし、絶家なんてことは現代ではそこらじゅうで起きている。まず子供のいない家はそこで絶家。いても女子だけなら絶家。男子がいてもその子が女子だけなら絶家・・・。こんな家はそこらじゅうにある。

逆に言えば家は何代続いている由緒ある家系だ、というのも意味はない。現在生きている人間ならだれもが先祖を持っているのだから。何代続いた、というのは長男の家であったということだけである。長男であることに何か特別な意味があるのなら、話は別だが。日本史の教科書に、平氏が滅んだ、源氏が滅んだ、蘇我氏が、物部氏が・・・という記述があって、大変なことが起きたように感じる。でも私は社会科として習っていた小学生の時から、氏が滅びる、つまり「絶家」ということの意義が理解できなかった。

遺伝は理解できるが、それは日本人とか白人とかユダヤ人とかいうレベルであって、鈴木さんと佐藤さんの遺伝子にそう大きな差が出るとは思えない。「優秀な家系」といわれるが、成功した人間は裕福であるから生活は安定し十分な教育が受けられ、成功を引き継いでいく素地が十分にある、と言うだけのことだ。

血を誇ることは、すなわち個の否定であって、血統がいいから優秀であるというのは自分は幸運であることを誇っていることになる。ろくでもない家系なのに成功したのなら大いに自慢できると思うが。遺伝子に傷のようなものがあれば、それは引き継がれるだろう。その傷が深刻なものなら、社会的に不利で生活も苦しくなるだろう。生まれる子はその苦境で育つから同様に苦労する。


宗教的な行事を、教養とか精神的飢餓とか不安などからではなく、避けようのないほとんど義務として経験していけばいくほど、信仰によって救われるとかおこないの善悪が報いとなるとかいうことが良くも悪くも消滅していき、どんどん虚無的になっていく。

わけのわからないものを、得体の知れないものを拝み信じることには不安がある。それは本当に救ってくれるのかということよりも、そのような無節操な行為に対して羞恥を覚えるからである。われわれが信じているものはニセモノかもしれない。しかしもしホンモノかどうかを確信できるなら、科学的に証明できるなら、われわれはそれを信仰する意味はないし必要もない。

信仰を貫くことが讃えられるのは、それに疑いの余地があるからである。食事をしたり呼吸をし続けることは誰も讃えない。

冠攣縮性(かんれんしゅくせい)狭心症

夜中に目覚めて胸が痛むことについてはこのブログに2004年から記録がある。 もう20年続いていることになる。 この「発作」、発作というほどたいしたものではないが、寝床でしか起きたことがない。 ほぼ毎日飲酒しているのではっきりとしたことは言えないが、飲酒が大きな要因のひとつであるの...